キリストの福音にとどまれ!偽りの教えはあなたを縛り、正しい福音はあなたを自由にします。

異論をとなえる前に・・・エリヤハウスとはどのようなものか紹介します。

エリヤハウスは、過去のトラウマが現在の問題の根源であるとして、トラウマを取り去る祈りをすることによって、人格に変革をもたらし現在の問題を解決しようとするミニストリーです。
このミニストリーに関して疑問を投げかける前に、エリヤハウスの祈りのミニストリーの手法と基本的な考え方をエリヤハウスの出版物から簡単にご紹介いたします。

 

@エリヤハウスの祈りのパターン

 

以下は、書籍「根にふれて祈る」ロブ・モリセット著よりの引用です
祈り全体については、171ページ16行―174ページ5行に、祈りの各段階については174ページ8行から189ページにあります。

 

1.主イエスに何が起こったのかを話す。今感じているのと同じ様に感じた過去の記憶を思い出す。

 

2.その時自分がどのように感じたか主イエスと分かち合う。
  この記憶は、事実と反していても良い。自分がその記憶でどう感じたかを問題とする。

 

3.主イエスに、自分の罪深い反応を告白する。自分が感じた気持ち(怒り、恨み)を主イエスに話す。

 

4.自分に不適切な扱いをした人たちを赦す。自分を傷つけた人、自分にトラウマを作らせた人を赦す。

 

5.自分のどのような罪深い否定的な決断も放棄する。傷つけられたことを通して持つようになった嘘や偽り、「自分は取るに足りない人間だ」「誰も自分を愛していない」などの否定的な思いを放棄する。

 

6.赦しといやしの祈りを、受け取る。グループの人に、神の赦しを宣言してもらう。

 

A何をトラウマとするかについてのエリヤハウスの考え方

 

エリヤハウスは、過去に他者に対して抱いた赦せない気持ち(罪深い反応)がトラウマ(苦い根)となり、人生で悪い実(問題・不幸)を刈り取ることになると教えます。たとえそのトラウマの記憶が事実でなくても、自分がどう感じたかでトラウマが作られて人生に不幸を招くと教えます。

 

以下、書籍<「根にふれて祈る」ロブ・モリセット著からの抜粋>
1.苦い根の原因は出来事によらない。出来事で感じた自分の気持ちや悪い反応が苦い根の原因
苦い根の原因になったのは、起こった事柄や環境ではないのです。・・・そのできごとの中で自分と傷つけた人たちも原因ではありません。苦い根の原因になったのは、起こった出来事に対してした自分の罪深い反応だ、ということです。

168ページ6−10行

 

2.罪深い反応とは他者に対して感じた赦せないなどの悪い気持ち
その罪深い反応とは、自分を傷つけたと信じている人たちに対して赦せない気持ちでいることです。それは苦々しさ、憤り、裁く思い、憎しみ、仕返しをしたい気持ちなどとなって現れてきます。

169ページT−3行

 

3.あなたの記憶で感じたあなたの気持ちがトラウマの原因です。記憶自体は事実でなくてもよい。
一番大事なことはあなた自身の見解です。もしかしたら、ある特定の記憶では、あなたの見解は他の人と違うかもしれません。それはそれでよいのです、そのあなたの見解によってあなたは裁きをし、その裁きよって悪い実を結んだのですから。最初に、その時の大事な周りの状況を思い起こしてください。言い換えれば、何が起きましたか?どんな内容でしたか?それから、そのできごとがあなたをどういう気持ちにさせたか思いだしてください。あなたはその時どう感じていましたか?もしそれが思い出せないのなら、どのように自分は感じたと思いますか?して次に、自分を傷つけた人たちに対して、とった罪深い反応は何でしたか?そして最後に、このできごとの結果、信じてしまった偽りを見つけ出してください。

159ページ6行―15行

 

4.実際に起きなかった記憶でも、心に悪感情を抱くなら自分の人生に不幸を刈り取る
実際に起きなかったとしても、罪深い反応の結果、悪い実を結ぶことになってしまうのです。

175ページ5−6行

 

Bトラウマを祈る時のエリヤハウス独特の祈り

 

エリヤハウスは、苦い根(トラウマ)に関する記憶がないときや、記憶が不確かなときにも祈ることができるし、祈るようにと指導しています。

 

以下は、根にふれて祈る」ロブ・モリセット著からの抜粋です。
1.思い出せないときは、時間をかけて主に祈って思い出す努力をする
もし、根の問題に関連していると思われるような記憶をまったく思い出せない時には、どうしたらよいでしょうか。これにはいくつかの原因があると思われるので、がっかりしないでください。場合によっては、もう少し時間を取って、その悪い実が持つある特定の特徴をはっきりさせる必要があるかもしれません。

159ページ6行―160ページ4行

 

2.記憶があいまいな時は、「もし、・・・ならばの祈り」をする 
根となる事柄について知っていることが不完全で、そのものごとの一部であったり、もしくは誰かが伝えてくれた話であったりする場合、根を明らかにするだけの根拠がないと感じる場合でも、とにかく祈ってみてください。・・・その場合には、私が自分では「もし、ならばの祈り」と呼んでいる祈り方をおすすめしています。それは、このような祈りです。
「主よ。もし・・・が本当に起こり、私がその時・・・のように感じ、彼らがした・・・にたいして腹を立てたならば」。このようにして祈る時、はっきりと自分が確信した真実ではないかもしれない根の事柄を信仰によって祈っていくことになるのです。何かをこのように祈って人生が変わっていくのならば、これはすばらしいことではありませんか!そして、何の変化もない場合でも、私たちの側に損失は何もないのです。しかし、もしその苦い根のことがらを祈らないのであれば、それが根であるかどうかもわからないままなのです。

176ページ1行―14行

 

3.もし・・・だったら」の祈りの実例として
生まれつき胃潰瘍の男性が癒されたケース
「主よ。私は母の胎内にいた時に母にストレスを感じてしまったのかもしれません。もしそうであるならば、その時感じたことは好きでなかったと思います。特にそれがずっと続いて安心できない場合は、なおさらです。また生まれてくることに対してもストレスを感じていたのかもしれません。その結果として、母に腹を立てていたのかもしれません。もしそうであるならば、その怒っていたことを罪として告白し、自分の母を赦します。」彼が祈った後に、私(ロブ・モリセット)は主イエスにその潰瘍のいやしを祈りました。その結果、私たちは明確な変化を見たのです。まず、彼の胃潰瘍が速やかにその場でいやされました!6カ月後に会った時にも再発しておらず、四十五年間患っていた潰瘍は完全になくなったのでした!

177ページ6行―178ページ1行

 

以上簡単にエリヤハウスの考え方、ミニストリーの進め方について紹介させていただきました。これからは、このミニストリーの問題点について指摘させていただきます。

エリヤハウスの問題点を考える

@問題の原因はトラウマにあるとすることの問題点

 

1.現在抱えている問題の原因を、自分が他者に対して抱いた悪感情にあるとすることは、悔い改めを拒む人間の罪を増長させることになります。
エリヤハウスでは、自分を傷つけた他者に対して抱いた恨みや怒りなどの苦々しい思いが原因で、現在の問題が引き起こされていると説明します。言い換えると、原因は自分にあるのではなく、自分に怒りの気持ちを抱かせた他者にあると言っているのです。確かに他者に罪はありますが、自分にも罪があります。どのようなケースにおいても、100パーセント自分に問題がなかったと断言できないのではありませんか。
エリヤハウスは、問題の原因が自分にあると認める辛さから人を解放し、作り話や空想話に問題の原因を求めようとする人間の罪を増長させます。人間は罪深い存在であって、問題が起きた時に、自分ではなく他者が悪かったのだとする理由づけをいつも探しているものです。このミニストリーは、人間の罪の傾向に対して絶好の機会を提供することになります。

 

2.トラウマを取り除いても問題は解決されません。問題の原因は罪ある自己という存在です。
トラウマを祈り、1つ1つ消していく作業は無意味です。ただ疲れ果てるだけです。なぜなら、私というものが存在する限り、常に新たなトラウマが生み出されるからです。トラウマの解消にはきりがないのではありませんか。エリヤハウスは、トラウマが解消しなければ不幸を刈り取ると教えています。そうであるなら、エリヤハウスによっては、永続する心の平安は決して得られないのではありませんか。
問題の本当の原因は、私という罪人の存在であると聖書は言っています。私は、生まれながら罪と死の原理に縛られていて、律法を守り切れない存在です。そこで、神はこの私を十字架において、キリストと共に葬ることによって、その存在を無きものにする道を備えられました。それだけではなく、神は私をキリスト共に復活させることによって、もはや私によってではなく、キリストによって生きる新しい人としての歩みを備えてくださいました。
トラウマから解放されるために聖書が示す方法は、トラウマを持った自分を死んだとみなし、過去は終わったこととして葬り去ることです。そして、御霊に従うことによって、未来に約束されている素晴らしい恵みを待ち望んで今を生きることです。つまり、過去に終止符を打つこと、御霊の臨在と働きに信頼して歩むことです。これが、過去のトラウマから解放される聖書的な唯一の道です。

 

3.トラウマの特定において、事実よりも本人の反応が重要とすることは、相談者に偽りの記憶を作り上げる機会を与えます。これは、「偽証してはならない」という聖書の戒めを破る行為を教会が勧めていることになりませんか
エリヤハウスでは、相談者がトラウマの記憶を思い出せない時でも、時間をかけて思い出させ、記憶があいまいな時には、「もし、このことが起きていたのであれば、私はこう感じたでしょう」と祈らせています。これは、相談者に偽の記憶を作り出させる動機を与えます。なぜなら相談者はカウンセラーに自分のことをもっと祈ってもらいたいと常々思っているし、このミニストリーはトラウマの記憶がなければ祈ってもらえないからです。ですから、このような状況でカウンセラーから相談者に対して思い出すように促された記憶は、作り話であったり、事実を一部改ざんして自分が傷つけられたことを誇張した物語であったりする可能性が大きくなります。
そして、相談者に嘘偽りを言わせるようにうながすミニストリーは、聖書の十戒の中にある「偽証をしてはならない」の戒めを破らせる行為ではありませんか。このようなことを習慣化させることで、相談者に「うそをつく」という悪い習慣を植え付けることにはなりませんか。他者に対し、また自己に対して嘘偽りを言う者が、神に対して真実な信仰を持つことができるのでしょうか。このような者を神は最も忌み嫌われるのではないでしょうか。
エリヤハウスは、人間が自己をも偽る生き物であることを忘れています。
トラウマの特定において、事実よりも本人がどう反応したかを重視することは非常に危険です。

 

Aエリヤハウスを実践することで生じる生活上の問題点

 

事実について他者との認識のギャップが生じ、仕事場や家庭において人間関係が悪くなることが予想されます。そのために、さらに祈りのグループの交わりに、依存し、逃避していく可能性があります。
現実に起きている問題についての原因の認識が、エリヤハウスをしている人とそうでない人では違います。エリヤハウスをしている人にとって、問題の原因は自分や他者が抱えているトラウマです。そのトラウマという発想からすべてを理解します。
たとえば、自分が仕事でミスをして上司に強く叱られた場合、叱っている上司の幼児期に作られたトラウマが原因で、上司は私に対して怒りやすくなっているのだと判断するでしょう。そして、叱っている上司の忠告を深刻に受け止めるのではなく、自分を傷つけた上司を赦す祈りをするでしょう。信じさせられた偽りを払いのける祈りでとして、「私は仕事ができる」を自分に宣言することで心をいやそうとするでしょう。しかし、これでは誰の忠告も指導も、いっさい効果がないことになってしまいます。エリヤハウスに傾倒する人たちが自分の正当性に固執して、他者からの助言に耳を貸さない為に、周りの人は困惑して愛想をつかすことでしょう。また、このような心理状況を理解できないで距離を置くことでしょう。職場や家庭において、「自分は正しい」という思いは守れても、家族や友人たちは離れていくことでしょう。
そして、絶対に自分を肯定してくれて慰めてくれるエリヤハウスの秘密の交わりにますます逃避していくことになると思われます。

 

B祈りのグループ・仲間の交わりに関する問題点

 

エリヤハウスの祈りのグループは、相談者を自己肯定させるだけの集まりです。また、カウンセラーに自己達成感を感じさせる集まりです。
エリヤハウスの祈りのミニストリーは、相談者がすでに何度も祈ったことのある過去の出来事を祈ったり、相談者が作り出したり、誇張した記憶を話して、その出来事で自分が感じた怒りや満たされない思いを、泣いたり、叫んだり、甘えたりして発散し、最後には、「自分には価値がある、自分は愛される」などと宣言して自分に肯定的な思いを入れる決心をし、祈りのグループも相談者に慰めと励ましの言葉のシャワーを浴びせかけて、相談者に赦しと新しく変わる宣言をしてあげる、このようなことの繰り返しに過ぎないミニストリーではありませんか?
自分の理性を外して、感情を爆発させればすっきりすることでしょう。このようなことは、誰の前でもできることではないので、絶対に秘密を守る仲間の存在が必要です。そしてエリヤハウスの集まりは、相談者が子供返りをしても、怒りや恨みなどの、どのような感情を発散しても受け止め、相談者の味方であって絶対に秘密を守るという約束の上での集まりです。しかし、このような集まりは閉鎖的で非常に不健全です。このミニストリーは、お互いを正しいとする慰め合いの集まりに過ぎないのではありませんか。
十字架につけているのは、他者によって自分が思いこむようになった否定的な思いであって、自分の罪ではありません。自分を傷つけた人を赦していますが、それは自分が正しかったにもかかわらず、その自分に悪を働いた人をさえ赦す、という寛容で愛のある自分を確認できる祈りに過ぎません。
このような集まりは、相談者の自己を肯定させて甘やかせ、神と人の前に自分の正当性を認めさせようとする罪深い行為です。相談者が喜ぶのを見て、カウンセラーも自分が関わる喜びを感じることができます。しかし、カウンセラーは、自分の祈りが相談者をさらに自己肯定させて、喜ばせているだけに過ぎないことを知らなければなりません。

 

Cエリヤハウスの提供する「心のいやし」に関する問題点

 

エリヤハウスでは、一時的な慰めを得ることはできても、聖書が約束するような永続する心の平安を得ることはできません。
私たちはこの世で生きている間は、悲しい出来事を避けることができません。また、トラウマを避けることもできないでしょう。この世は、天国ではなく、罪の世界だからです。エリヤハウスは、トラウマが解消されなければ、不幸の刈り取りが待っていると教えます。そしてトラウマを無くすことで初めて平安を得ることができると教えます。
しかし、キリストが与える平安は、過去がどうであったとしても、現在どのような問題を抱えているとしても、そのままで心の平安を保つことができるというものです。自分がどのように罪深い人間であっても、救いを得ているなら神の愛が注がれていて、天国が約束されています。トラウマを除かなければ、神が祝福してくださらないという教えは偽りです。
エリヤハウスは、救われたキリスト者の罪は、過去も現在も未来もすべてキリストの血によって赦されている事実を忘れています。キリスト者と神との平和は、すでに実現しています。(ローマ書5章1節)過去に悪感情を抱いたとしても、そのことで神が悪い出来事を生じさせることはありません。エリヤハウスが与える心のいやしは非聖書的な教えに基づいていており、相談者の良心の呵責を一時的に軽くすることができるだけのものです。聖書が与える永続的な心の平安や、相談者を救いに導くこととはいっさい関係がありません。

 

Dエリヤハウスの「祈り」に関する問題点

 

1.エリヤハウスの祈りはキリスト者の祈りではありせん。
イエスはエリヤハウスの勧めるような祈りをされましたか。このような祈りをした聖徒たちがいますか。主イエスは「私の願いではなく、みこころがなりますように」とすべてを神様がなさることにゆだねて従われたのではありませんか。
祈りとは、神との対話であり私たちクリスチャンの特権です。祈りは、神に対して語りかけ、神から導きや慰めを受ける、神との全人格的な交わりです。
エリヤハウスの祈りは、自分の過去の悪い反応(怒り)を神に告白し、神が告白した怒りの気持ちを消してくださったと自分が信じて受け取り、神に赦されたと自ら宣言し、またグループのメンバーからもそのように宣言してもらって、今までとは正反対の新しい行動をする決意を自分がするという祈りです。
エリヤハウスの祈りは、神に自分の問題を提示して始まり、自分が決めた解決方法で神が働いてくださったと自分が信じ、これからは積極的な思いを抱いて行動することを自分が決心する祈りです。これは、自分から発して自分で完結している祈りです。まるで、神様の前で独り言を言っているような祈りです。

 

しかしキリスト者の祈りはこのようなものではありません。キリスト者は神に心のすべてを打ち明け、自分を空しくして神の前に立ち、神から教えを受けようとするものです。そして、私たちの祈りに対して神は真実に応答してくださいます。私たちの理解を超えた永遠のご計画に基づいて、私たちを忍耐して導いてくださいます。失敗を重ねる愚かな私たちに、ご自身を現わしてくださいます。キリスト者の祈りとは神との対話です。
エリヤハウスの祈りは、神に聞くということが欠落しています。非常に無味乾燥な祈りで、神との対話という要素はありません。

 

またエリヤハウスの祈でりは、何をどのように祈るべきかわからないケースはないでしょう。なぜなら、祈りの内容は相談者がどのように変化したいかによって定まるからです。

 

しかし、キリスト者はいつも正しい祈りができる訳ではありません。どう祈っていいかわからない時や、自分が願うべきでない事を祈っている時があります。しかし、聖霊が私たちの代わりに正しい祈りをいつも神に届けていてくださると聖書に書かれています。(ローマ8章26−27節)
つまり、信者はいつも正しい願いを持っている訳でないけれども、御霊のとりなしによって、信者の祈りが神のみこころに添うものに変えられていくのです。信者に対するこのような神の助けは、エリヤハウスには起こりえません。エリヤハウスは御霊に頼らない自力による変革だからです。ですからエリヤハウスの場合、祈るべきでない祈りをし続けることが起き得るでしょう。なぜなら、そこには神による修正が介入しないからです。

 

1.祈りとは、エリヤハウスが言うように自分の罪の思いを神に告白して消滅させ、自分が変わる決心を神の前に宣言することではありません。
現実にいろいろな問題を抱えていてもいても、キリスト者は神に感謝し、神の恵みにあずかっていることを感謝します。なぜなら、いつか永遠の都、天国において主の御顔を拝し、現世のあらゆる悩みから解放されて、永遠に生きることが約束されているからです。
とにかくキリスト者は感謝せずにはおれません。そして、神の素晴らしさを称えずにはおれません。
キリスト者であるなら、祈りの言葉の中に神への感謝をを表現する言葉が出てくるものではありませんか?。
これらのことから考えても、エリヤハウスの祈りは、聖書的ではありません。エリヤハウスの祈りは、キリスト者の祈りではありません。自己を改善しようとして、自分に言い聞かせている決心に過ぎません。

 

2.傷つけた相手を赦す祈りは、正しい自分を傷つけた相手を赦すほど、自分には愛があると自尊心を感じるための祈りにすぎません。
エリヤハウスでは、自分を傷つけた人を赦す祈りをします。これは難しいことで、良いことのように聞こえます。しかし、実際は、そうではありません。なぜなら、トラウマの原因を作ったのは、自分を傷つけた他者であって、自分は正しく被害者だからです。自分は寛容にも、正しかった自分に悪を働いた人を赦す祈りをするのです。自分は愛のある素晴らしい存在と思えます。この祈りによって相談者の自尊心は高められます。エリヤハウスの祈りは自己肯定のための祈りです。

 

3.主イエスに傷を告白しても、傷の記憶は消えません。かえって傷を意識して傷がうずくでしょう。エリヤハウスは過去が解決されなければ、将来不幸を刈り取ると教えます。しかし福音は、過去が解決されていなくても、新しく勝利の人生を歩むことができると約束します。
主イエスに自分が感じた傷の記憶を告白すれば、本当に傷ついた心の痛みが消えるのでしょうか。私たちは、罪人であるために、過去の傷を忘れようと思えば思うほど忘れることができないし、過去自分を傷つけた人を赦そうと思えば思うほど赦すことができない者です。律法は私たちをさらに罪ある者と意識させます。
確かに、主に触れられて聖霊が私たちの心を癒してくださることはあるでしょう。しかし、それは、私が主と共に十字架について死んだとき、自分に付属するいっさいのものが、つまり過去も、十字架につけられて葬られたのだと認めた上で、主とともに蘇った新しい歩みを、ひたすら主の助けと恵みをよりどころとして歩む中で、自分の努力ではなく、「主ご自身が私に対して成してくださるいやしのみわざ」ではないでしょうか。ですから、自分の心を「いやそう」と意識して努力すればするほど、私たちはいやされない現実、他人をゆるせない現実に向き合うことになるのです。
古い人につく過去をいっさい葬ってしまえば、自分の意識がそこに固着することはありません。むしろ今与えられている神の恵みや助け、約束に心を留めて感謝と喜び希望に満ちてクリスチャンとして歩むことが聖書の提示する道です。
エリヤハウスは、人の思いを過去に向けさせ、過去が解決しなければ、現在も未来もうまくいかないし、未来に不幸を刈り取ることになると教えます。これは、間違った非聖書的な教理です。聖書は、過去の問題が解決されなくても、信仰によって今この瞬間から喜びに満ちた人生を歩む秘訣を与えるものです。

 

4.否定的な要塞を取り壊す祈りは、古い人が変わる努力を決心する祈りです。いくら頑張ってもいつかは失望に終わるでしょう。
エリヤハウスでは、トラウマによって自分が信じさせられた否定的な思いを「要塞」と呼んでいます。ミニストリーの最後には、この「要塞」を打ち砕く祈りをして、「神の真実」とエリヤハウスが呼ぶ肯定的な思いを受け取る祈りをします。しかし、これは人間が選び取り決心することだとエリヤハウスは言います。
エリヤハウスの変革は、人間の努力によって自分の性格を劇的に変化させようとするものです。ミニストリーにおいて、相談者が新しい思いを抱く決心を宣言し、グループのメンバーもその決心が相談者の心に定着するように祈ります。
しかし、聖書の方法は違います。聖書には、人間の努力で律法を守ろうとするなら決してそれは達成できないし、最後には神にさばかれる結果となると書かれています。(ローマ8章13節)御霊によってのみ、律法を全うするようにと聖書は語っています。(ローマ8章4節)
エリヤハウスの新しい心を頂く祈りは、決してその目的を達成できません。かえって、何度祈っても改善されない自分に向き合うことになるでしょう。そして何度も何度も同じ祈りを繰り返さなければならないことになるでしょう。

 

<参考資料>
エリヤハウスの「否定的な要塞を取り壊し手放す祈り」の説明箇所
ロブ・モリセット著 書籍「根にふれて祈る」よりの引用
神が私たちにしてほしいと望んでおられることは、これらの神の知識に反する論争や想像を打ち壊していくことなのです。・・神の知識とは何でしょう?・・これは、たとえば「誰も私を愛していない」という偽りを受け入れていた場合、それに対する神の真理(真実)は「神は私を愛している」となるでしょう。・・根の問題を祈る最後の段階は、私たちの否定的な決断を「取り壊し」たり打ち壊したりすることです。それらは私たちの個人的で否定的な要塞です。
私たちは、これらの否定的な決断を取り壊し、手放し、放棄していきます。そのことを私たちがする時、私たちは自分の決断を手放していく適当な表現を選択し、用いていきます。
「私は・・・を放棄します」や「私は・・・を手放します」「私は、もう・・・という嘘には同意しません」「私は・・・という真理を取り戻します」などのような表現です。
たとえば、私たちが「誰も私を愛していない」という偽りを放棄してく時、神が私たちを愛してくださることを意識して放棄していくのです。「誰も私を愛していない」というのは真実ではないので、これを放棄する時、自分たちの信じていた偽りを神の真実と取り替え、信じていくことを選んでいくのです。
188ページ12行―189ページ13行 

キリスト者たちへの提言

私たちはキリスト教会がエリヤハウスを用いることに反対いたします。

もし教会が、悲しんでいる兄弟姉妹を励ますためにエリヤハウスを用いるなら、信者の信仰は変質させられてしまいます。
もし教会が、新来者が集うための場としてエリヤハウスを用いるなら、新来者を「キリストの福音」が受け入れられない霊的状態に作り上げてしまいます。

 

日本のクリスチャン人口は年々減少しています。教会に集うクリスチャンの平均年齢も高齢化しています。多くの教会は、子供が少なく、若者が教会に来ないという問題を抱えています。日本での伝道が伸び悩む中で、教会が人々の悩みの相談に応じることによって未信者を集めるために、また問題を抱えて元気をなくしている信者を励ますために、エリヤハウスが導入されているのではないでしょうか。伝道のツール、または信仰への補完的な役割を担うミニストリーとしてエリヤハウスが期待され、運用されてきたと思われます。しかし、果たしてエリヤハウスは、その期待に応えることができているでしょうか。

 

これまで、考察してきたことから、率直に申し上げて、エリヤハウスは教会の伝道ツールとして、また信仰を補う役割として用いるべきではない、それどころか用いてはいけないものであることが明らかです。エリヤハウスの教理は聖書の教理に全く反しています。
エリヤハウスがなぜ聖書的でないかについては、今までに十分述べさせていただきましたが、要点を上げるとすれば以下のようになるかと思います。
エリヤハウスは自己を肯定し自分の決意によって自己を変革させていきます。しかし、聖書の教えは、自己を否定して聖霊に頼ることによる聖化です。
エリヤハウスは過去を思い出し過去のトラウマを取り去らなければ聖められません。
しかし聖書には、救われた人は神によって新しく生まれ変わっており、信者の過去の不幸も失敗もすべて、神が信者の益となるように働かせてくださるとあります。
エリヤハウスは自らの聖さを完成することを目標としていますが、
聖書は自分の聖さを完成させることによってではなく、神の聖さに預かることによって聖化されると教えています。
エリヤハウスは、自分の悪い反応(怒り)だけを十字架につけて(告白して)清めます。しかし、聖書の場合、自己という罪人自体を十字架で葬ります。
これらキリスト教の根幹を成す教理の違いは非常に重要です。

 

エリヤハウスを信仰の導入として教会の新来者に紹介し、小グループの交わりの中にしっかりと組み込んだ後に、礼拝で福音を知らせようと考えておられる先生方が多いのではないでしょうか。しかし、これでは返って新来者に「福音を受け入れられない体質」を作り上げてしまうことになります。なぜなら、はじめに聖書に反するエリヤハウスの教理を教え込んで、その手法に頼るようにさせてから、エリヤハウスとは全く違う考えに立つ聖書の福音を伝えるということになるからです。
これならばいっそのこと初めからエリヤハウス無しで、福音だけを聞く方が正しく信じられる可能性は高くなると思われます。また信者にエリヤハウスを紹介することは、彼らの信仰に悪影響を及ぼします。

 

エリヤハウスにはまった人たちは、このミニストリーがなかったら自分を保つことがでません。そこで、聖書の教えを自分なりに差し引いたり、アレンジしたりして信じることになります。エリヤハウスの教えが主で、聖書の教えは添え物、または飾り物となります。
このような人たちが教会に増えていき、勢力をもっていくならば、正当的な福音が曲げられ、福音に真っ向から反対する意見が優勢になるということが起きるでしょう。そして、教会は慰め合いの社交場、文化活動の場に変えられてしまうことでしょう。教会にたくさんの人が集まっていても、救われていない人ばかりという事態が生じるかもしれません。そしてこのような教会は、純粋な思いで教会に入ってくる人たちを惑わし、滅びの子としていくのです。
キリスト教会において責任ある立場におられる方々に、是非エリヤハウスについて真剣に検討していただきたいと提言いたします。

 

もしすでにエリヤハウスが導入されているのであれば、すぐにその集まりを止めていただきたい。ただ、止めるだけではなく、聖書が伝える聖化について学び、聖書に基づく実践を導入する良い機会としていただきたいと私たちは提言いたします。
新来者にとって教会が居心地の良いところであるようにとの配慮は大切です。しかし、教会の一番大切な使命は、新来者に福音を知らせることです。
もし、新来者が機嫌を損ねることを恐れて、福音を差し引いて伝え、彼らが喜ぶ話だけを提供することで終始するならば、本来の使命を果たしていないことになります。「神の慰め」「神の愛」「神の守り」などは宣べられても、「神の主権」「人間の罪」「神の義とさばき」などはあまり語られていないのではなでしょうか。

 

キリストの福音にとどまれ!

キリストの福音とは、人間にとって都合の良い知らせだけではありません。キリストの福音とは、人間について神がお定めになったすべてのことです。つまり、人間に都合の良いことも、悪いこともすべてを含めた神からの知らせです。この知らせを人々にあますところなく正しく伝えることが教会の使命です。
聖書には、この福音は多くの人が嫌って捨てるものであると書かれています。しかしそれでも、主によって召される者たちは、この福音を慕って神に立ち返ります。救われる人にとってはこの福音が密よりも甘いものだからです。

 

エリヤハウスの問題を通して、クリスチャンたちが「パウロの述べ伝えたキリストの福音」を思い起して立ち返る良い機会としてくださることを心から願います。

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