キリストの福音にとどまれ!偽りの教えはあなたを縛り、正しい福音はあなたを自由にします。

体験者の良くなったあかしがあるから良いミニストリーであるとは言えない

エリヤハウスは、ミニストリーを始める人たちに体験者のあかしを聞かせます

 

体験者のあかしを聞いた人々は、「この人のように自分の人生が変わって喜べるなら、私もやってみたい」と思います。
そして、ビデオ講座が始まるのですが、1回目2回目あたりのビデオの内容は教理的に問題がありません。
ですから、講義を受ける人々は、この時点で「受け手も大丈夫だな」と安心します。
しかし、講義が進むにつれてだんだんとビデオの内容は、福音からはずれていきます。
ところが、福音理解において確信のない人は、ビデオを見続けている内に説得されて、「おかしいな」と疑問に思わずに、かえってエリヤハウスの論法が最もだと思うように導かれます。

 

ビデオを使ったミニストリーの危険性を感じます。ビデオ映像は人を惹きつけるからです。説教や読書と違って、ビデオは一方的に情報がときれなく流れてくるために、聞く人に考える時間を与えないで情報をどんどんインプットすることができるからです。また、ビデオ映像は、強い印象を与えることができるので、見る人にビデオが与える思想を受け入れやすくさせるからです。

 

体験者たちのあかしが、一時的で主観的なものであることを忘れてはいけません。

体験者たちは、「元気になった」「積極的になった」とあかししていますが、それらは体験者のその時点での状態であって、その状態がずっと続いているかどうかは非常に疑問です。事実、あるエリヤハウスで元気をもらっている人は、祈ってもらった時は元気になるのですが、しばらくするとまた元気がなくなり、次の祈りのミニストリーの日をいつも心待ちにしています。時には、その日まで自分を保つことができなくて、牧師に個人的にミニストリーをしてもらっています。

 

また、体験者が「良くなったと」思っている変化を、周りの人は「かえって悪くなった」と思っていたり、体験者の変化に迷惑している場合があります。
ですから、体験者たちのあかしは主観的なものです。
結論として、「体験者たちの素晴らしいあかしがあるからエリヤハウスは良いミニストリーだ」と単純に判断することはできません。

エリヤハウスは、ほとんどの場合牧師が始める

牧師が受講して良いと判断し、教会が導入する場合がほとんどです

 

エリヤハウスは牧師が導入を決めるのですから、信者たちはエリヤハウスのミニストリーに対してはじめから疑いをもっていません。かえって、「教会が推薦しているのだから正しいものだ」という認識で受講を始めます。信徒たちは牧師を信頼しています。その結果、彼らは無防備に、福音に反するミニストリーによって影響を受けることになります。

 

牧師の舵取りいかんに、群れ全体の霊的な命がかかっています。
牧師が福音にしっかりと立っていれば、その群れは安全に導かれますが、牧師が選択を誤るなら群れ全体が死んでしまうことになります。
群れの監督として立てられている牧師の責任の重大さを痛感します。

 

また、教会の一部の人たちは、このミニストリーの間違いに気がつきます。
しかし、教会を上げてなされているミニストリーに対して異論をとなえることは、信者にとって大変勇気がいることです。
自分が反対を表明すれば、牧師やエリヤハウスを喜んでいる信者との関係が悪くなって、教会にいられなくなる可能性も出てきます。それで黙ってまうケースが多いと思われます。

 

しかし、黙っていてはいけません。聖書を調べて間違いだとわかったなら、その意見を発言するべきです。これは他人のあら探しをすることではありません。クリスチャンが当然なすべきことです。
そして反論を聞いた人々も、その意見が本当に聖書に合致した助言かどうかを吟味するべきです。やっかいな問題には関わらないようにして、自分の信仰さえ守っていればいいと、自分の身の安全を優先している兄弟姉妹が多いのではありませんか。

 

プロテスタントの精神は、誤った信仰に対して「ノー」と言うことです。宗教改革は誤っている教理に対して反対を表明して始まったのではなかったでしょうか。事実、プロテスタントの歴史は真理を守るための戦いの歴史でした。
クリスチャンは、他者に対して寛容であり親切であることを心がけますが、真理に関しては妥協をせずに反対の声を上げます。
真理はクリスチャンの命です。真理が守られなければ、救いもないからです。

エリヤハウスで人が集まるから良いミニストリーなのか?

エリヤハウスをすれば人が集まるので、採用する教会が多いのです。

 

エリヤハウスを受けている人たちは人を誘うので、教会に人が集まります。
エリヤハウスを受けている人たちは、「積極的になった」「人間関係が良くなった」「夫婦の仲が円満になった」「仕事が長続きするようになった」など、自分が変えられたあかしを会う人ごとに話します。そして、まだエリヤハウスを受けていない教会の人々や未信者の友人を熱心にエリヤハウスに誘います。なぜ彼らは、こんなに熱心に人を誘うのでしょうか。

 

それは、「礼拝や聖書の学びに来ませんか?」と誘っても無視されますが、「教会であなたの悩みを聞いてくれて、祈ってくれるから来ませんか?」と誘えば興味を示してくれるので誘いやすいからです。誘われる人、「伝道されるのではなく、自分の悩みの相談をしてくれるのだ」と思って教会に足を運ぶので気軽に誘いに応じるからです。

 

また、おそらく、彼らは同じメンバーで繰り返し同じトラウマを祈っているので閉塞感を覚えていて、新しい刺激がほしいのかもしれません。新しい人が来れば、その人の人生を知ることができ、新しい祈りの課題が与えられ、自分がその人を癒やすという達成感を味わえるからです。

 

とにかく、彼らは熱心に人を誘います。それで、いつも断るのは申し訳ないから一度くらい行ってみようかと参加する人や、こんなに勧めるということはよほど良いミニストリーなのだろうと期待して受講する人が起こされることになります。

 

教会としてもメリットがあるために、採用する教会が多いのです。

エリヤハウスは信徒もカウンセラーとして、牧会の役割を担うことができるので、教会は信徒にやりがいを持たせることができます。

 

カウンセラーの養成については、ビデオを一通り見ればいいので、「福音を解き明かすことができる教師」を育て上げるよりもずっと簡単に短期間で養成することができます。カウンセラーとしての資質は、エリヤハウスに熱心であれば条件を満たすことができるので、多くの人がカウンセラーになることができます。

 

そして、自分がカウンセラーとして集まるエリヤハウスの交わりに自分の友達を誘うので、教会は今までよりもずっと多くの新来者を獲得することができます。
教会は「説教」や「聖書の学び」では得られなかったこれらの効果を見て、このミニストリーを中心にすえて教会を形成していこうと考えるという現実があると思われます。

 

エリヤハウスは真実の悔い改めを避けるように導きます。

エリヤハウスは信仰を持たなくても元気がもらえるミニストリーです。

 

自分の問題を聞いてくれ、問題の原因はトラウマのせいで自分は被害者であったと言ってくれ、励ましの祈りをグループの人がしてくれるからです。
そしてグループのメンバーは、どんな相談でも自分に味方してくれます。気持ちがすっきりします。
今は、悩みを聞くだけの商売が成り立つ時代です。自分の家族ですら悩みを聞いてもらえない人が多くいます。
それを教会が無料で提供してくれるのですから、ありがたいことです。

 

多くの教会は、エリヤハウスで仲の良い交わりを作って、それから信仰へ橋渡しをしようと考えておられるのではないでしょうか。
しかし、そのようにうまく事は運ぶでしょうか。彼らも「キリストを信じます」と告白することはできるかもしれません。

 

けれども、救われるためには、その人が悔い改めて新しくされなければなりません。
「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ヨハネ3章3節
真実な悔い改めのみが人に救いをもたらします。そのためには、神のみこころに添った悲しみを悲しまなければなりません。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」 第2コリント7章10節

 

確かに、彼らはあかしの中で「自分の罪を悔い改めた」と言います。
しかしそれは自分の傷んだ部分(トラウマ)が見つかったので、それを神様に告白して聖めているだけです。
エリヤハウスは、トラウマを祈らないまま放置すると、だんだん大きな不幸となって自分にふりかかって来ると信じています。ただ、トラウマは祈れば聖められると考えます。ですから、トラウマは、見つかればすぐに祈って聖めておかなければいけないのです。

 

エリヤハウスの悔い改めは、将来自分に不幸が起きないように、自分の罪を十字架につけて聖めるための手段です。
これが、果たして新生を伴う心からの悔い改めでしょうか。

 

これらのことから、このミニストリーが魂の救いとは何の関係もないことは明らかです。

 

そして確実に言えることは、このミニストリーは真実の悔い改めを避けるように導くミニストリーであるということです。
(当サイトの「エリヤハウスの問題点」の記事、外部サイト「内なる人の変革からの考察」をご覧下さい。)
悔い改めについては、簡単に説明しきれない問題ですので、後日このサイトで述べさせていただきたいと考えています。

エリヤハウスは心を癒やしてくれますが、救いを与えるものではありません

心が癒やされることと、救われることは別の問題です。

孤独だった人が、祈りのグループに入れられて仲間を得て安心できるという効果はあるでしょう。悩みの度に、グループに祈ってもらうことで問題を克服できたとか、自分の性格的な問題を解決できて、人間関係が良くなったという人が起こされるかもしれません。
しかし、エリヤハウスを体験した人たちが「心が癒やされた」と言うことと、エリヤハウスに集まっている人が「救われている」ということとは別問題です。

 

教会は魂を癒やすところではなく、魂を救うところです。

 

人生を変えるための秘訣を教えてくれる場所は、教会だけではありません。
他の宗教や本によっても、たくさんの人が自分の問題を克服するきっかけを得ています。
つまり、キリスト教でなくても、心の癒やしや人格の改善を体験している人はいるということです。

 

キリスト教会の務めは、人々にキリストを信じる信仰を与えて天国への道を開き、この世の命を超えた永遠の命をもたらすことです。
つまり、教会の務めは「魂の癒やし」ではなく、「魂の救い」です。

 

エリヤハウスは、人の心を癒やすかもしれませんが人を救いに導くものではありません。
さきほども触れましたが、エリヤハウスは真実の悔い改めを避けさせるために、人々を救いから遠ざけるからです。
そして悪いことは、エリヤハウスに集う人々が、ますます人間のすばらしさを賛美するようになることです。
なぜならエリヤハウスの手法は、結局のところ人間の愛や努力、知恵によって人格に変革をもたらす試みだからです。

 

しかし、聖書はこの世に義人は1人もいない(詩編14章1−3節)、皆悟りがなく愚かである(詩編53章1−4節)と言っています。
人は生まれつき天地創造の神を否定してその思いは暗くなっており(ローマ1:21−32)自分を主人として神無しで生きようとする原罪を持っています。
ですから、人間には生まれつき愛がありません。人間の愛は条件付きで、変わりやすいものです。
しかし、キリストの愛は違います。神の愛は、ご自身をののしる者の罪を赦すために、十字架の上でご自身を犠牲にされる愛です。
ですから、神のみが愛の源です。私たちは、この方に繋がっていなければ互いを愛することすらできない存在です。

 

人間の努力によって人を愛することを教えるのではなく、キリストにより頼むことによって互いを愛することを教えるのが教会です。
キリスト者は、人間の愛によって互いに愛し合うのではなく、神の愛によって互いを愛するのです。

 

以上のことから、エリヤハウスを実施する教会は聖書が示す信仰のあり方と正反対な方向に人々を導いているのです。

エリヤハウスを導入することは、魂に対する教会の責任を問われる問題です

エリヤハウスを体験した人に、良い効果が現れているからエリヤハウスは教会で導入してもいいと判断できるでしょうか

ミニストリーを受ける人々が喜んでいるので、良いことのように思う人がいるかもしれません。しかし、エリヤハウスは正しい信仰を持つことを妨げます。
なぜなら、エリヤハウスの教理と聖書の教理は相反するからです。
(なぜかは当サイトの「エリヤハウスの問題点」をご覧ください。また、外部サイト「内なる人の変革」をご覧下さい。)
エリヤハウスを続けたい人は、エリヤハウスを取るか、福音を取るかの二者選択を迫られることになります。つまり、もしエリヤハウスを続けたい場合は、聖書の教理を否定するか曲げるしか選択肢がないということです。

 

聖書の教理を曲げて信じなければできないようなミニストリーを導入すること自体が間違ってはいませんか。
正しい福音を伝えて人々に永遠の命をもたらすことが教会の務めではなかったでしょうか。
教会はエリヤハウスを導入することによって、新来者を福音の奥義を信じられないようにし、教会に集う信者の信仰を変質させてしまいます。

 

救われる信仰を持つことの中に、当然聖書の正しい教理を受け入れることが含まれます。
そして、救われなければ、この世でいくらトラウマを取って自己を変革ができたとしても、死後には永遠の滅びが待っているのです。
教会は、新来者に対して霊的な務めを正しく果たす責任があります。また、与えられている信者の信仰を正しく保つ責任があります。

 

ですから、エリヤハウスをすでに導入している教会や、これから導入を考えておられる教会は、ぜひ導入を中止していただきたいと願います。